ushi4026’s blog

旅と自転車、工作を愛する高齢者。あくまで私見ですが。

車遍歴

ついでに自動車の遍歴も書く。

子供のころから自動車は好きだった。車の名前はすぐ覚え、小1か小2の頃には通りかかった車の名前を同級生と当てっこした。論争になったのは当時それほど多くなかった2台。

マツダキャロルか、三菱500かで論争になった。走り去って行ったので真実は解らずじまい。

小学4年では熊本で同じ自衛隊官舎にいた同級生の父上がパブリカを持っていて、阿蘇山まで連れて行ってくれた。途中踏切でエンストし、列車にひかれそうになったこともある。その同級生とは仲良しで結構色々な所へ連れて行ってくれた。

一方わが父は自家用車など持たなかったが、連隊長だったせいか、毎朝ジープで迎えが来た。隣の官舎に住んでいたのは誰だかは知らないがもっとお偉いさんらしく、前後ドアが観音開きのクラウンでお迎えが来ていた。

4年だったと思うが、トヨタカローラという車を発売し、新聞紙上見開き2面の全面広告に驚いた。発表会に連れて行ったもらったカローラは、外車と見まごうばかりの洗練されたスタイルだった。当時のライバル日産サニーより排気量が100CC多い1100㏄と言うのが売りだったが、俺はそのスタイルに感動した。

我が家に初めて車が来たのは小学5年か6年の時。8つ年上の兄は懸賞マニアで、テレビを2台当てていたが、まさか車が当たるとは。ロッテの出した「車が100台当たる懸賞」に応募して見事当選したのだ。困ったのは車庫である。当時文京区の木造官舎に住んでいた。父と兄がどう相談したのかわからないが、比較的余裕のあった敷地を囲っている板塀を(まさか無断ではないだろうが)切り開き、木材で補強して観音開きの車庫ドアに改造してしまったのだ。当家に伝わる史上最大のDIYである。

当選した車は三菱コルト1000F。ファストバックという斜めのリヤが特徴だった。2BOXワゴンが流行る20年も前に発売されたものだ。

これ以降父もドライブが好きになり、関東一円色々な所に連れて行ってもらった。しかし記憶に残っているのは観光地ではなく、姉が目的地についても疲れたと言って車から降りずに車内で休んでいた事と、父がどこの食堂へ行っても名物など頼まず必ずカツカレーを注文する事だった。父はその後マークⅡ、カローラ、カムリとトヨタ車を乗り継ぐ。兄は自分で買うようになってからはホンダ派で、シビック、フィット、フリードだ。俺は後述のように節操がない。

俺の初めての愛車は、なんとスズキキャリイ。社会人1年目で金のなかった俺に、自衛隊を辞めて会社員になっていた父が務めるアパレルの会社の営業車を譲ってもらえることになった。

忘れもしない、初任給10万8千円に対し、値段は8万5千円。但し7万キロ走っているので、色々ガタが来ていた。中央高速の相模湖へ上る坂では40km/hしか出ず、追い越し車線でトラックに追い越される始末。パンクも良くやって高速道路わきでスペアタイヤに替えたりした。まあ愛すべき奴だったが。那智勝浦までフェリーで行き、紀伊半島を回った時は布団を積んで今の嫁と車中泊旅行をした。商用車だったので後ろの席がボルトで簡単に外せたから、後は2人十分寝られた。後々の車中泊のはしりである。四国にもフェリーで行ってキャンプや民宿を渡り歩いて半周したものだ。

そんなキャリーにも寿命が来た。新婚1年目で仙台に単身赴任となり、自転車2台と山の道具を積んで引っ越しすることになり、東北道を走っていたが、福島飯坂IC付近でついにエンジンが焼き付き、JAFに下ろされたが深夜だったので自動車工場も開いていない。工場の脇で車中泊していると雪がちらついてきた。山の道具を取り出し、眠りについた。朝目覚めると10cmくらい積もっている。その朝赴任するはずだった仙台支社に詫びを入れ、電車で仙台に向かう。キャリイはその工場でそのまま廃車となった。

仙台に赴任中に姉から申し入れがあり、時々借りていた姉のゴルフⅠを購入することになった。ゴルフが30万なら安いものだ。ただしエアコンはない。三角窓と言うのがついていて、夏は唯一の空調である。でも高速道路を走ると風圧で閉じてしまい、以後暑さが続く。これは13万km位まで乗ったか。屋根に自転車キャリアを乗せ、嫁と二人で走りにも行った。当時新宿区のアパートに住んでいたが、家賃3万5千円に対し、駐車場を借りようとすると最低6万と言う。大泉学園の嫁の実家に住民票を置き、その近所に借りて、車を使う時はバスと電車で取りに行くという日々だった。

子供が生まれ、嫁の実家に住むようになり、養父が病で運転できなくなってその車を使うようになった。養父は自動車会社の営業だったので、客から引き取った中古車を次々と変え、使用していた。およそ父に似合わないカリーナGTとかスカイラインであった。


特にスカイラインは全長が長く、小さな住宅の車庫に入れると犬小屋にぶつかって犬が飛び出てくるという事が良くあった。大きい車が嫌いなのは車庫のせいからか。

阪神大震災で家族で明石に転勤すると、家族の移動なども大変なので初めてローンを組み、新車を買った。

広告でUSAバスケットボールの選手が中に入って広さをアピールしていたあれである。

正月などに帰京する際には家族4人分の電車賃を節約するため、車で帰った。小さい子が高速で退屈しないようにバッテリーで動くビデオプレーヤーを載せ、小さな液晶テレビを後席に付けてレンタルしたビデオのアンパンマンなどを流して過ごした。

事故が起きたのは娘が中学生の時、吹奏楽部で遅くなった娘を迎えに急いで出て出会いがしら、修理代が40万かかると聞いて、東京都民なら車要らねえやと廃車にした。

しかし、東日本大震災で単身赴任中、娯楽もない大船渡でじっとしていられず、東北じゅうを回りたい欲求にかられ、当時よく見ていた「おぎやはぎの愛車遍歴」に影響されてか、一度は自分で好きな外車を買いたいという欲求が高まってしまった。単身手当とかでその時期は結構羽振りが良かったのでベンツE350かボルボV40にしようと狙いを定めていた。しかし、家の屋根が台風で剥がれて修理に¥350万もかかったので、泣く泣く目標を下げ、¥200万台のプジョー208に落ち着いた。

良い車だったし、東北中を自転車と共に走り、思い出深い車だった。4年で8万キロくらい走ったかな。ディーラーが仙台か盛岡にしかなく、定期点検の度に3時間半かけて行く羽目にはなったが。

いよいよ最後、退職前に計画していた車中泊&自転車旅行を実現することになり、再びスズキが浮上。プジョーも良い車だったが、前席の背もたれが国産車のように水平まで倒れず、車中泊には不向き。また自転車を載せるならヨッコラショとルーフキャリアに載せねばならない。給料のあるうちにとソリオへ。フリードも候補だったが荷室の高さがわずかにソリオより低い。自転車を積むならできるだけ高い方が良いと決めた。バードビューのバックカメラは車庫入れが苦手な俺でもまっすぐ入るのが気に入った。

スズキに始まり、スズキで終わる。いやヤマハで終わる、予定なのだが。